【東日本大震災】あの日を忘れられない

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3月11日 この日が近づくとテレビでは『あの日を忘れてはいけない』的な番組やニュースが多くなる

実際、被災した側からすると忘れたくても忘れられない日なので大きなお世話である

 

テレビ各局でも何年か前はゴールデンタイムをまたにかけての特番が多く見られたが2017年現在では特番は放送するけどゴールデンはほぼバラエティ番組です。

NHKだけはゴールデンでもさすがに震災特番を放映する模様

テレビ東京にいたっては地デジの番組表を見たかぎりでは『震災』の文字すら見当たらない…
ちなみにゴールデンの番組は『コレいくら?目指せ!3万円ぴったんこの旅』である
(実際見ていないのでどこかで放送してたらすいません)

さすがテレビ東京、ブレない姿勢はもはや潔ささえ感じる

 

話がちとズレちまった、

3月11日14時46分 黙祷のサイレンが鳴る

あの日を回想する

当日は地元にいなかった

3.11当日は仕事で地元にいなかった。ラジオでは地元に10mの津波警報が出ている。

仕事を切り上げ帰ろうとするが地元へつながる橋が通れない!

家族が心配でならなかった。電話はまったくつながらない

数日前にiPhone4に変更したばかりでソフトバンクの電波の悪さ(当時はクソ悪かった)を心から恨んだ。

上司の家へ行って電話を借りに行くがドコモも回線が混雑しておりつながらない。数時間かけなおし続けてやっと繋がった。

家族の無事を知った僕はとりあえず明日の早朝に帰る事にした。

ゴーストタウン

早朝、家へ向かった僕は唖然とした、そこら中に車が散在し道をふさいで通れないのだ。人の気配もまったくない。完全にゴーストタウンと化していた。

途中で車を乗り捨て家へと急ぐ。土砂に覆われたアスファルトが町の風景を一変させてしまっている。

そこいら中にガスボンベがシューシュー音をたてていて不安を増長させる。

弟の車が近所の門の上に寄りかかってるのを見た。車の後部が完全に門の上に乗っている。この時『ああ、ホントに津波来たんだ』と感じた

家は無事だった。一階だけ浸水しただけで二階にある自分の部屋はいつもと変わらない。いつもと変わらない部屋の佇まいに少し落ち着いた。

外の惨事とのギャップがすごかったのを鮮明に覚えている。

家族はすでに避難所にいる事がわかってた僕はすぐ消防団の制服に着替え消防庫へ向かう。

途中今度は母親の車を発見した。あきらからにもう乗れないと直感でわかった『去年買ったばっかりなのになぁ』と考えつつ消防庫へ急ぐ。

お隣さんの笑い声がもう聞けない

僕のお隣さんは夫婦で住んでいて30年近くの付き合いがあった。

二人とも声がデカくてテレビを見て笑っている声がいつも僕の家まで聞こえていた。二人とも気さくな人で僕の顔を見るといつも話かけてくれた

 

消防庫へ着くともう何人か集まっており町内で行方不明者がいてまだ見つかってないとの事。僕のお隣の旦那さんだった。

結局、僕達だけでは見つける事ができず警察と消防署に任せる事になった

その後の作業は押し寄せる野次馬たちの相手だった

momotaroux.hatenablog.com

数日後、お隣の旦那さんは家からたった数十メートル先の背の高い藪の上で見つかった。

見つけたのはお隣さんの孫だった。泣いていた。お隣のおばさんも泣いていた。

ぼくは慰めの言葉を一言かけるので精一杯だった。

 

その数日後、お隣のおばさんは自分で命を絶った。

 

今は隣からテレビを見て大笑いする声は聞こえない。

でもあの楽しそうな笑い声はけっして忘れない

避難所で見た同級生の顔が忘れられない

夜は隣町の避難所で何日か過ごした。

ある時、同級生が不安そうな顔をして避難所へやって来て

『オレの母ちゃん見なかった?』と訪ねてきた。

僕は『見てないよ』と答え同級生は『そか』と泣きそうな顔で答え避難所を出ていった。おそらく別の避難所へ探しにいったのであろう。

 

数ヶ月後、見つかったとの報告をもらい同級生の住む仮設住宅へいった。

お線香をあげ酒をのんだ。同級生は泣かなかった。きっと見つかった事への安堵のほうが強かったに違いない。

この数ヶ月間の同級生の気持ちを考えるとこっちが泣きたくなって意味不明に説教したのを覚えている。

きっと酒に酔った僕は同級生が泣かなかったのが気に入らなかったのかもしれない。

同級生よあの時はスマン。

大好きだった海岸線の風景

ぼくは自分の町の海の見える海岸線が大好きだった

幼少期を過ごしたおばあちゃんの家も海岸線にあったし、なにより海を見ながら走る海岸線は最高に気持ちよかった。

現在は防波堤がそびえ立ち海は見えない。この町の海は3.11で観光資源としての役割を終了したと感じている。

海の真ん前にあったおばあちゃんの家は跡形もなく流されていて今も更地となっている。

海岸線はすっかり様子を変え防波堤の工事は今でも進んでいる。

町の景観が変わってしまうのは寂びしい事ではあるがお隣さんや同級生の事を思うと仕方のないことであり当然の処置なんだと思う。

あの日を忘れられない

僕はあの震災で家も家族も失っていませんが忘れられない記憶として残っています。

3月11日 この日が近づくとテレビでは『あの日を忘れてはいけない』的な番組やニュースが多くなる

実際、被災した側からすると忘れたくても忘れられない日なので大きなお世話である。

 

被災したみなさんが早くあの時を忘れられるような楽しい時間、幸せな時間が訪れる事をただ黙祷と共に祈っています。